静御前

 

静御前は平安時代後期の平氏源氏の戦乱から鎌倉での武家政権の誕生の時代を生きた女性でした

静御前は白拍子で、白拍子は、歌舞の一種で、踊りを踊る人、舞う人、芸をする人、遊女など解釈がありますが、今で言うとアイドル的な要素があったとも言え、高貴な貴族や身分の高い人物の屋敷、行事で舞うことが多く、貴族や、平氏、源氏といった時の権力者の側室(妾)になる例も多かったです

平清盛も、祇王や仏御前といった美しくお気に入りの白拍子を側室(妾)にとりました

義経も静の美しさ、華麗な舞に魅了され、静を側室(妾)にしたと言われています

そんな源義経との日々も長くは続きませんでした

壇ノ浦の合戦など平氏討伐で名声を高めた義経でしたが、異母兄の頼朝とは何かと折り合いが悪く、後白河法皇から朝廷の役職、左衛門少尉、検非違使に任じらたことを快く思われなかったり、頼朝の重臣、梶原景時に義経の活躍の様子、京での朝廷からの優遇を悪く報告されるなど、義経は次第に頼朝から疎まれていきます

義経は京都の吉野に身を隠しますが、ここで静御前が捕らえられてしまいます

義経はその後、数少ない郎党とともに奥州の藤原氏を頼りにみちのくの地に落ち延びますが、静は、鎌倉の頼朝の元へ送られます

そこで頼朝はこともあろうかに、静御前に白拍子の舞を舞うように命じました

静は、頼朝の前で、義経と別れた寂しさ、辛さからか、義経を思い慕う踊りを舞いました

これに激怒した頼朝でしたが、頼朝の正室、北条政子になだめられ、私も静御前の立場なら、同じことをしたでしょうと、頼朝の怒りをなだめました

政子のとりなしによって、命は助かった静でしたが、義経の子を身ごもっており、産むことになるのですが、男子なら処刑、女子なら助けると言う約束でした

お産した乳児を抱いた静は泣きながら、乳児を抱きしめ離しません

頼朝の家来が男子か女子か確認しなければなりませんが、静と義経の子は男子でした

乳児が男子であったため、おいおい泣く静から離され、処刑されたと伝えられます

男子なら後に成長し、大人になると、復讐のされることを恐れためだといいます

その命を出した頼朝自身、父、義朝が平治の乱で敗北し、義朝逃亡中の尾張国野間で家臣の裏切りにより殺され、頼朝は平清盛のいる京の六波羅へと送られ清盛は、継母「池禅尼」に頼朝の命を助けることを懇願され助命された過去がありましたが、義経の遺児が生き残ること許さなかったのです

義経は、奥州藤原氏に身を隠し、3代の秀衡が死ぬ間際、4代泰衡に義経とともに頼朝と戦うことを遺言しましたが、泰衡が鎌倉の頼朝の圧力に耐えられず、義経を裏切ります

高舘 

義経は伝承によれば、高舘(衣川とも言われるが諸説あり)で、裏切った泰衡の軍と、武蔵坊弁慶、奥州まで付き添ってきた家臣と奮戦しますが、正室(郷御前さとごぜん)と子とともに自害します 享年31

鎌倉を離れてからの静の消息はわかっていない部分が多く、若くして死んだとも、義経の死を弔うため仏門に入ったともいわれ、全国各地に墓や伝承があります

また義経も各地に伝承や、義経の首(義経の身代わりになって討たれたといわれる)がいくつも伝えられ、蝦夷に逃れたとも、大陸を渡ったともいわれています

平家追討によって名声を得た悲劇のヒーロー義経、その義経に愛された静は死んでも、人々の伝説の中で生き続けています

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京都の神泉苑 平安時代に干ばつが続いた時、後白河上皇が、神泉苑で雨乞いの儀式を行い、総勢100人で雨乞いの儀式を舞わせたといわれている その時に美しい舞を舞ったのが静御前といわれ、神泉苑で静かと義経が出会った場所といわれている

各地にある義経、静御前の墓、大河ドラマ恒例のロケ地でも知られる、えさし藤原の郷、義経最後の地に奉られる、高舘義経堂(高館城跡)

芳姫

芳姫は下野の国の有力守護、小山氏の小山善政の正室でした

小山氏は平将門の乱で活躍した、藤原秀郷の流れを組む名門の系譜であったとされています

義政の代の頃、小山氏は勢力を拡大し絶頂期を迎えますが、その勢力拡大を快く思わなかった鎌倉公方、足利氏満に小山氏追討軍を出され、鎌倉府と小山氏の大規模な戦になります

小山城 粕尾城 

以下は、小山よし姫の墓に行くときの案内版によります

南北朝時代に下野の守護であった小山善政は、鎌倉公方であった足利氏満にそむき柏尾城(現栗野町中柏尾)に籠もったが、戦いに敗れて赤石河原で自害しました

芳姫はその小山善政も正室で、義政に会うために侍女(世話をする女性)を一人伴って柏尾城に向かっていましたが、その時大事に持っていた乾飯の袋を宝の袋とまちがわれ、案内役のものに殺されてしまいました

その後、江戸時代になり村人はこれをあわれんで、寒沢林道の奥に芳姫のお墓を建て供養したということです

芳姫のお墓は、現在、市の指定文化財になっており、この御堂は近年になって小山芳姫の墓保存会の人々によって建てられたものです

芳姫は夫が篭城する城、柏尾城に辿りつく途中に大事に持っていた乾袋(食料)を宝の袋にまちがわれ、案内役の村人に殺された伝承から、夫の元に辿りつけなかった悲劇の姫として伝えられています

案内役の村人が芳姫の大事に抱える袋を宝の袋だと思い、芳姫を殺してしまうところになんともいえない味気の悪さを感じます

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小山よし姫(藤原氏女とも記録が残る)の墓、栃木県栃木市星野にありますが、現在は倒木のため進行が危険なので行くのなら、良く問い合わせてから行くといいでしょう

小山夫妻が、再興寄進したといわれる鷲宮神社 (埼玉県北葛飾郡鷲宮町)は室町期~戦国期にかけ要塞化され粟原城ともよばれたといわれています TVアニメ「らき☆すた」の聖地としても知られる

おつやの方

 

おつやの方は織田信長の祖父、織田信定の娘で、信長よりも若かったのですが、名目上、信長の叔母にあたる人物となっています

信長とは歳が近かったため幼馴染なような関係もあったのでしょうか

弟の信行との家督争いを制し、桶狭間で今川義元を討ち取った信長は天下取りへ向けて、周辺国の有力な国人を織田家に取り込みます

信長は甲斐の武田信玄との戦に備え、美濃国東部の重要拠点岩村城と、国人を味方に取り込むために、おつやを岩村城主、遠山景任(かげとう)に嫁がせました

岩村城 

岩村城のあった東美濃はとても重要な地域であり、東には信濃、南には三河「愛知県の東部」に位置する場所あり、織田信長がおさえたかった要所、地域でした

1572年に夫である景任が病死してしまいます(武田氏との戦による傷による病死ともいわれる)

おつやは夫を失ったと同時に、岩村城の城主を失いました

跡取りがいなく断絶した岩村城の遠山氏でしたが、織田信長が家臣を送り込み、信長の五男坊丸(のちの織田勝長)を養子にし、跡を継がせようとしました

信長の五男坊丸は、まだ幼少で跡取りといっても政務などをこなせることができないので、遠山景任の妻であり、坊丸の母(義理)となった、おつやの方が坊丸の後見人となり、岩村城の城主という位置におさまりました

亡くなった遠山景任とおつやの間には子はおらず、信長の五男坊丸を養子にしたわけですが、おつやの方にとっては岩村城を守ることはもちろん、跡取りとなった坊丸を守ることも重要だったと思え、後見人となり女城主になったおつやは、坊丸を我が子のように可愛がったといえます

しかし、武田信玄が、上洛を目指す作戦の中、信玄の家臣、秋山虎繋(信友)に攻められ窮地に追い込まれます

この時、諸説ありますが、岩村城の城主を務めていたおつやは、包囲された中でもはや勝機なく、降伏するしかなくなりますが、城兵の命を救うには、おつやは女性なので処刑は幼い坊丸がすることで開城するか、おつやが秋山虎繋(信友)の妻となり武田氏側につくことで坊丸が助けることを約束する条件を呑むかの選択に迫られたといいます

織田家から嫁ぎ、織田家の重要な東美濃の城、岩村城を守ること、跡継ぎの坊丸の命をなんとしてでも守る、後見としての役目を担っていたおつやは相当悩んだことでしょう

おつやは武田氏側の秋山虎繋(信友)の条件をのみ和議を結びます

遠山氏家臣に武田氏の家臣も前から多かったため武田氏側につくという状況もあったのです

そして岩村城に武田氏家臣、秋山虎繋(信友)が城主として入り、おつやは再婚します

この時、女性であったとはいえ、城主であったおつやは処刑など処分を免れ、新しく城主になった秋山虎繋(信友)に未亡人ながら再婚していることから、織田家へ人質として利用できることに加え、後世では絶世の美人であったのではないかという説もあります

おつやが大事にしていた坊丸は人質として甲府の武田氏の元へ送られ、岩村城の支配は織田から武田へと変わります

この成り行きに激怒したのは、岩村城を織田家の重要な拠点のひとつとして、おつやを嫁がせた信長でした

信長は五男坊丸を人質に捕られ、岩村城とおつや、その家臣が武田側に寝返ったことに反発し、岩村城攻略を命じます

この頃1572年は信長が武田軍をはじめ、反信長勢力があり、岩村城攻略は簡単にはいきませんでしたが、年が明け、武田信玄が亡くなります

高天神城 

武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が岩村城を拠点の一つに、東美濃を侵攻、高天神城も攻略しますが、織田徳川連合軍が長篠の戦いで打ち破ります

長篠城 

この戦いで武田勝頼、武田軍に大打撃を与えます

長篠の戦いで武田勝頼を打ち破った信長は岩村城を再び攻めます

この時、おつやと秋山虎繋(信友)の篭る岩村城を包囲した織田信忠軍は、城兵の命を守ること約束し降伏し、開城して、おつやと秋山虎繋(信友)は織田信忠の家臣、河尻秀隆に捕らえられ岐阜に送られることになりました(河尻秀隆はその後岩村城が与えられた)

しかし、城兵の命を守るといった約束は守れられず惨殺されたといいます

おつやと秋山虎繋(信友)など重臣は、逆さ磔の刑に処されます

信長にとって、おつやの状況判断は、武田氏への寝返り、反逆にしか見えなかったのか、見せしめの意味もあり裏切ったらどうなるかいくら身内と言えども容赦ない制裁を与えたのでしょうか

長良川の河川敷で、逆さ磔になり、じわじわと過酷な苦しみを味わいます

おつやは秋山虎繋(信友)の条件をのみ、武田氏につく決断をした時に、信長のこのような仕打ちを予測していたのか、それとも河尻秀隆に捕らえられた時に、織田家の一族であり、信長の叔母であることを理由に助かるかもしれないと考えていたのかもしれません

おつやの方は、自身の運命、境遇に左右されながらも岩村城主になり、幼い坊丸の代わりに岩村城とその城兵を守る決断をした勇気ある女性だったといえ、死後の地元でも女城主おつやとして町おこしになったりしています

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日本100名城で三大山城の岩村城、岩村醸造の酒『女城主』、岩村名物の『かんから餅』、高天神城(続100名城)、長篠城(100名城)

お市の方

お市の方は、織田信長の妹で尾張の国で生まれました

織田信長とは13歳も歳が離れており、信長はお市にとって兄というよりも、家の主、『家長』に近い存在だったのではないでしょうか

信長は天下統一、京への足がかりと、越前の朝倉氏の脅威を緩和のため、近江の浅井氏、浅井長政と同盟を結びます

そして長政の正室として、妹のお市を嫁がせます

小谷城 

小谷の方はこの近江の地、小谷に嫁いだことから、小谷の方と呼ばれるようになりました

政略による結婚は、形だけのものもあるにせよ、浅井家に嫁いだお市は、長政と仲睦まじい夫婦だったようです

茶々、初、江という3姉妹の娘にも恵まれました

茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう)の名前の響きの愛らしさから、長政、お市夫婦が娘の誕生をめでたく名づけたと想像することができそうです

順調に続くかと思われた浅井家のお市の生活でしたが、信長が浅井家との約束を破り、越前の朝倉氏に攻め入ります

近江の浅井家と越前の朝倉家は古くから旧知の仲であり、同盟国同士でした

信長と浅井家には勝手に、信長が浅井家に断りなしに朝倉家に攻め入らないという約束がありましたが、信長がこれを破ったのです

浅井久政、長政親子は、この勝手に約束を破り、旧知の同盟国朝倉に攻め入った信長に反旗を翻します

この頃、反信長といえる、武田信玄、本願寺、浅井朝倉連合、三好三人衆、延暦寺など信長は各地で戦をすることになるのです

しかし、武田信玄が京へ進む半ばで、病によって死去すると、武田軍は引き返します

それによって信長は、反勢力を押し伏せると、それまで分散していた兵力を浅井朝倉連合に集中することになるのです

朝倉氏館 一乗谷城  

越前の朝倉氏が織田信長に敗れ、一乗谷の朝倉館、城下町、寺社仏閣も焼けました

浅井長政の母の阿古の方

お市と3人の娘は信長に引き渡され助かりますが、長政の母の阿古の方は捕らえれ、信長の刑を受けます

それが、数日かけて、指を切られるというむごいものでした

最後に指を全て落とされ惨殺されます

信長はお市が嫁ぐ際、お市の方と長政の結婚を喜んで費用も、本来負担する側の浅井家ではなく織田家が負担したことから、信長は最初の戦いで朝倉氏を攻めた時、背後の浅井氏が裏切り攻撃し、かなりの危険な目に遭ったことから、信長は長政が裏切り、抵抗したことが許せなかったといわれています

長政親子は処刑されを髑髏に箔濃にされたといいます

本能寺の変の後また、お市とその三人の娘の人生は翻弄されます

清洲城 

本能寺の変の後、山崎の戦いで勝利した秀吉は、清洲城の清洲会議によって、信長の後継者、所領の分配が行われ、お市は織田家重臣の柴田勝家と再婚します

柴田勝家は織田信長の重臣として有名ですが、元は信長の弟、信行についていました

裏切りに容赦ない信長でしたが、勝家をそれでも許したのは勝家の優秀さを認め許し、自身に仕えさせたともいわれています

勝家と、お市の方は織田家の重臣とその信長の妹だったので、前から面識もありお互い知っていたことでしょう

羽柴秀吉もお市の方を望んだとも一説ではいわれますが、勝家と再婚しました

柴田勝家との新しい越前での生活が始まったお市の方でしたが、その生活も長くは続きませんでした

玄蕃尾城 

天下取りを目指す秀吉と、織田家の後継者を出し抜くことに危機感を覚えた織田信孝、柴田勝家は争いに発展することになったのです(賤ヶ岳の戦い)

玄蕃尾城は賤ヶ岳の戦いで勝家が本陣を構えた城です

北ノ庄城 

戦いが始まると秀吉軍に押され、越前北ノ庄城に立て籠もった柴田勝家軍でしたが、戦局が傾くと、味方の裏切りにも遭い落城します

お市の方と3人の娘を引き渡すように勝家に願い出た秀吉軍でしたが、お市の方は、3人の娘は引き渡しますが、勝家と自害することを選び、絶命します

そして、この時の長女、茶々がのちに秀吉の側室になり、豊臣家の行く末の重大な鍵を握ることになります

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小谷城(おだにじょう)跡、小谷城戦国歴史資料館、一乗谷朝倉氏遺跡、玄蕃尾城(続100名城最も完成された山城ともいわれる)、北ノ庄城址公園(茶々、初、江の三姉妹の銅像があります)

また最近だと福井県文書館で『ゲームとつながる福井の歴史~刀剣と城~展』が9月29日(金)から11月23日(木)まで開催中です

人柱伝説などが残る城

ここでは姫ではないものの、女性が築城の際、人柱になった城も数多く伝説として伝えられているところもあります

白河小峰城 

丸岡城  

郡上八幡城 

姫路城 

松江城 

この他にも、長浜城、大洲城など各地に伝説があります

細川ガラシャ(明智 玉)

細川ガラシャは明智光秀の三女で名前は玉として越前で生まれたと伝えられています

光秀は織田の家臣になる前に朝倉家の鉄砲指南役し、朝倉氏館から少し離れた場所に邸宅があったといいます(明智神社)

15、16際の頃に織田信長の薦めもあり、信長の家臣であった細川藤孝(ふじたか)の長男の細川忠興に玉は嫁ぎます

細川家は織田の有力な家臣であるとともに、信長から戦の作戦を命じられた際の光秀の有力な与力でもあり、これまでも戦で戦友としての間柄の関係から、明智家と細川家は縁戚関係を結び、光秀は強固な信頼関係を築いたと思っていたでしょう

坂本城 丹波亀山城 

細川忠興と玉(のちのガラシャ)に夫婦仲は良かったようで、人も羨むほどだったといわれています

玉は美女として伝えられており、玉の美しさに見惚れていた庭師を嫉妬した忠興が手討ちにしてしまったという逸話もあります

忠興は信長の覚えもよく、信長から家紋を貰うなど信長のお気に入りの部下でした

明智光秀も信長の元で順調に出世を重ねましたが、本能寺の変が起こります

なぜ、光秀が謀反を起こし、信長を討ったのか理由ははっきりしませんが、信長の残虐な行い、京の貴族達から信長を討つように言われていた、荒い人使いで光秀が参っていたなど、京に近い重要な近江から遠い山陰中国地方への左遷させられるなど、いくつも説があります

本能寺で警備が手薄になっていた信長を討つわけですが、この時に、おつやの方にも出てきた坊丸(織田勝長)も討ち死しました

また秋山虎繋(信友)のあとに岩村城に入り、領地を支配していた河尻秀隆も、本能寺の変のあとに起きた旧武田家臣の遺臣の一揆により討たれました

岩村城の処刑に関わった信長、河尻秀隆、おつやが守ろうとした坊丸(織田勝長)もこの時みな亡くなったのです

宮津城 

信長を討った光秀は、今まで戦をともにした与力の大名にも味方になるように書状を出します

玉の嫁いだ細川家にも光秀から味方になるように来ますが、細川藤孝、忠興はこれに従わず

忠興は義理の息子との関係もあり、他の大名に光秀との内通を疑われないように、光秀の娘、玉を幽閉します

光秀の娘を嫁にもらった津田信澄は内通を疑われ、討たれています

細川家は光秀での重要な縁戚関係を結んだ有力大名家であり、これと同じく光秀と関係の深い筒井順慶も光秀に同調しなかったため、光秀は山崎の戦いで敗れ、落ち武者狩りに遭い重傷を負いまもなく自害しています

この時、坂本城に引き返す重臣明智秀満が琵琶湖を馬で渡った話が坂本城改の特技、左馬助の湖水渡りとなって伝わっています

また秀満の刀も明智拵として東京国立博物館にあり、刀の武器として実装される可能性もあるかもしれないです

2年近く逆臣の娘として、幽閉されていた玉でしたが秀吉のとりなしもあり、細川家の大坂屋敷に戻ることになります

この本能寺の変によって幽閉されていた期間は玉にとって辛く厳しいものだったことでしょう

幽閉から細川家に戻っても玉は監視された生活を送っていたといいます(ただ、こういった忠興の幽閉、監視には玉を守る意味もあったといわれる)

そんな玉が出会ったのがキリスト教です

監視されているので忠興には秘密で教会などで教えを聞いたりしました

玉に仕えた侍女もキリスト教の信仰を続け、清原マリアなど洗礼を受けました

天正15年(1587)6月、秀吉はバテレン追放令を出したので、追放される前に宣教師から洗礼を受け、ガラシャの洗礼名を受けました

実の父による本能寺の変という世を変えた事件、幽閉された辛い日々、忠興との夫婦仲など玉は辛く悩みの多い時を過ごしたことでしょう

キリスト教に関心を持つようになってから、玉の侍女もその教えを受け熱心に信仰していたようで、心の平安のよりどころをキリスト教に見出していたのでしょう

本能寺の変から18年、またも玉(ガラシャ)に悲痛な運命が訪れます

秀吉の死後、五大老筆頭徳川家康と、五奉行の石田三成の間で戦への不穏な空気が流れます

上杉景勝に謀反の疑いありと、会津征伐に向かった東軍(家康軍)の隙をつき西軍に多くの大名を取り込もうとした三成は大坂城、またその周辺の大名屋敷の妻などを人質としてとります

西軍に細川家も取り込もうとし、ガラシャも人質に捕らえられそうになりますが、ガラシャは人質になることを拒否します(この時代は武将の妻や母、子などが合戦の際に人質になることは戦の常套手段だった)

自害はキリスト教で禁止されている教えなので、家老の小笠原秀清に胸を槍で突かせ果てます

遺体は見つからないように火薬で屋敷を爆発させ家臣も死にました(侍女達には逃げるよう言い逃げさせた)

この知らせを聞いた三成は大変驚き、大名の妻子を人質にとることをやめたといいます

享年は36または37

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味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)にある玉(ガラシャ)の幽閉地、女城跡 ガラシャの死の報告がイエスズ会の宣教師によってヨーロッパに伝えられラテン語の戯曲「強き女」が出来たといわれています(脚色されたが、オーストリア・ハプスブルク家に好まれたといわれる)

駒姫

駒姫は山形の最上義光の次女(もしくは三女の説もあり)として生まれました

山形城 

母は大崎氏の大崎夫人です

時の関白、豊臣秀次(羽柴秀次)に見初められ、山形の最上氏の次女(三女)から、秀次の側室に栄転しました

どのように最上家の駒姫と秀次が繋がり、側室になったのか諸説ありはっきりしていませんが、奥州仕置きの際、九戸氏の乱を討伐するため、山形の最上義光の陣に滞在し、そこで給仕していた駒姫を気に入ったなど、また、東国一の美少女と名を馳せていた駒姫を側室にしたいと願い出て側室になったのではないかと諸説あります

すぐに側室に欲しいと秀次は言ったそうですが、義光はなかなか承諾しなかったとも、年が若すぎるのでそれまで待ってから秀次に出す約束を交わしたともいわれています

が、どちらにせよ、山形の最上家から関白職の秀次に嫁ぐと言うことは玉の輿の中でも特別な最上級のもので、駒姫の周りに仕えていた人は、自分の土地、近しい姫が京の最高権力者格の秀次に嫁ぐことは名誉であり、喜ばしいと思った気持ちが半分、それまでお側で仕えていた姫が遠く京に嫁ぐことが寂しい気持ちも半分だったのではないでしょうか

秀次は豊臣秀吉の姉とも(瑞竜院日秀)の息子で、秀吉の甥にあたりました

秀吉には子はおらず、淀殿との間にできた鶴松は数え歳3で亡くなり、世継の居なかった秀吉は甥の秀次を後継者に任命し、養子に入れ、関白職を譲りました

聚楽第 聚楽城 

この時秀次は秀吉の後継者、その後の豊臣政権の最高権力を担う人物と地位になったとされており、豊臣氏の有力大名、家臣が秀次の周りに置かれ、豊臣政権の安定が軌道に乗る鍵を握った時期でもあったのです

鶴松が死去し、関白職を甥の秀次に譲り、自身の後継者として豊臣政権を任せた

ここまでは良かったのかもしれません

しかし、秀次を取り巻く情勢が一変します

秀吉の側室、淀殿が秀吉の子、秀頼を産んだのです

これにより、秀吉は自身の嫡男が誕生し、自身の後継者として、秀頼を立てたい考えるようになったといわれています

そこで関白職を譲り養子にもした秀次に謀反の疑いをかけ、秀次、妻子、側近の大名など有力家臣を断罪します(秀次事件)

この時、秀次には次の後継者として豊臣氏の有力大名、家臣が秀次の周りに置かれていたので、周りの家臣たちは次の政権を担う選りすぐりの、有力な豊臣家臣団でした

が、秀次に連座して、死罪、改易や流罪となり、秀次の助命を願った多くの秀次家臣が処刑されます

京に山形の最上家から秀次に嫁ぐはずだった駒姫は、京に着くと秀次事件に連座し、処刑されることが決まってしまうのです

嫁ぎ先の秀次と生活することもなく、京に着きすぐに事件に巻き込まれ処刑されることになった駒姫

最上義光、大崎夫人は助命の懇願を行います(秀頼の母、淀殿もにこの時は事件に関係していない駒姫の助命を秀吉にしたと言われる)

秀次の妻子、駒姫は京都で市中引き回しの刑にされ、処刑されました

京から駒姫の処刑の報を聞いた駒姫の母、大崎夫人は14日後に自殺しました

近江八幡山城 

近江八幡山城は京極高次の城となっていましたが、前の城主が秀次だったため破壊され、廃城されてしまいました

秀次事件は不可思議な点も多く、急ぎ早に処刑が行われ、豊臣の数少ない血筋を減らしただけでなく、豊臣家の有力大名、家臣も処刑、改易処分されていることから、豊臣政権の弱体化を招いたともいわれています

秀次に嫁いだ妻、側室、は有力大名の娘などが多く、駒姫も最上家、また伊達政宗の従妹にもあたり、関係のあった大名に影響を与えたといわれます

この後の関が原の合戦でこの時、処分された大名、家臣の多くが東軍につくことになるのです

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京都瑞泉寺 京の三条川原で処刑された秀次一族、駒姫を弔うため1611年に建立されました(寺内では秀次の墓と一族、側室の墓が手厚く弔わられています)

最上義光歴史館、山形県の専称寺(駒姫の墓が立てられており、駒姫の菩提寺として、山形城下町に移させて手厚く弔わられています)、近江八幡山城(続100名城)

淀殿  

淀殿は先に触れたお市の方の長女で、父は処刑された浅井長政、祖父浅井久政、祖母は阿古の方です

叔父に織田信長があたり、清須会議でお市は柴田勝家に嫁ぎましたが、お市は秀吉にも望まれており、秀吉のお市の望みは叶わなかったものの、長女の茶々(のちの淀殿)はお市の面影を残す美貌の持ち主だったとも一説にはいわれてもいます

どこが最初の秀吉との出会いか分かりませんが、秀吉は浅井と織田の合戦のおり、交渉する際に浅井陣に出向いており、もしかしたらその頃から淀殿とは面識があったかもしれません

お市の方と浅井長政の三姉妹。茶々は秀吉夫人(側室)へ、次女、初は京極高次夫人へ、三女、江は徳川秀忠夫人に嫁ぎます

淀古城 

秀吉の側室になった茶々は、秀吉の子、鶴松を淀古城で産んだといいます(淀の方と、この頃からいわれるようになった)

秀吉は大変喜びましたが、鶴松は死去

その後関白職、聚楽第を甥の秀次に譲りますが、拾(秀頼)が産まれると、秀次の謀反に疑いがあると、秀次事件が起こるのです

秀吉は自身の亡き後、秀次と秀頼が後継者争いのような事件が起こるのを避けて、秀次を先に処刑したのでしょうか

秀次亡き後、淀殿の産んだ秀頼が豊臣家の正式な後継者になるのですが、5年後に秀吉が死去するとまた不穏の空気が漂うのです

秀吉死去の後、徳川家康と石田三成の間で関が原の合戦が起こります

大坂城にいた淀殿は表向きは西軍の大坂城に居していながらも、傍観的な態度をとり、戦の後は、一連の合戦に関与していないこととし、大きな処分は免れます

この時豊臣家の多くの所領が失われ、65万石の一大名に転落したといわれてきましたが、最近の研究によると、豊臣家の領地は家康の管理化におかれたものの、依然として特別な待遇を受けており、それなりに保たれていたとされています

関が原の合戦後、家康の勢力は拡大し、豊臣家の勢力は衰えたものの、西に秀頼、東に家康と二つの大きな存在がありました

大坂の陣 慶長19年(1614年)11月

大坂城  

大坂の陣は、方広寺鐘銘事件の鐘による問題ともいわれていますが、生きているうちにどうしても豊臣氏を倒しておきたかった家康側の陰謀といわれます

大坂の陣は、関が原の合戦から14年後に起きるわけですが、秀頼を最初から滅ぼすつもりだったなら、もっと早く討つはずだったとも思われ、家康が14年後に秀頼を討とうとしたのは、秀頼と京で面会した際、秀頼の持つカリスマ性に圧倒され、存命中に秀頼を討たなければと思ったともされています

大坂城での戦いが起こると、全国各地から豊臣家は豊臣方への参加を求め、各地から関が原の合戦以後、改易や浪人となった、武士が集まります

真田丸 

真田信繁(幸村)も、父昌幸とともに西軍について改易された大名の一人でした

信繁など戦に通じる有力武士は、豊臣家の淀殿、秀頼の側近、大野治長に城より出て戦を展開する作戦を示したようですが、淀殿はこれを受け入れませんでした

信繁や寄せ集めた有力家臣は、城を出て戦うことで、寄せ集めの家臣団の連携が深まったり、大坂城に集中しすぎるよりも、展開することで戦力を分け、戦いを複雑にし、家康軍の大坂城攻めの戦力を分散させたかったようですが、秀頼の母であり、後見的な立場の淀殿は篭城戦を貫きます

これはおそらく、淀殿が、小谷城で浅井長政を、北の庄城で柴田勝家といった家族、継父を失っており、なんとしててでも大坂城、秀頼を失いたくないと篭城に終始こだわったのではないかと思われてもいます

信繁は冬の陣で大坂城に出城、真田丸を築き善戦しましたが、夏の陣で豊臣家は滅びます

淀殿、秀頼は自害、側近も自害します

秀頼と千姫の子、国松も捕らえられ処刑されます 享年8歳

浅井家に嫁いだお市の方は、兄信長の手によって、長政を討たれ、その後、本能寺の変、清須会議を経て、嫁いだ柴田勝家で羽柴秀吉に勝家を滅ぼされ、お市は勝家とともに自害、豊臣秀吉の側室となり秀頼を守り、大坂城を守った淀殿も、大坂の陣で、自身、秀頼、側近、そして孫の国松までも討たれ、豊臣家は断絶し滅びるのです

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大坂城(現在は大城といわれ、豊臣大坂城と、その後の徳川家の大坂城は徳川大坂城とも分けられる)、現在の大阪城内にある刻印石広場 この場所はかって山里曲輪と呼ばれ、淀殿と秀頼の最後の自刃の地といわれています

歴史と城と戦と悲劇の姫君は

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美月菜奈

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