柳川城「今日は、天下普請の城について見ていきます」

合わせて、未実装の城、そして天下普請とは何だったのかも見ていくことにしましょう

天下普請の主だった徳川方の城一覧

関ケ原の戦い 慶長5年 1600年

膳所城(ぜぜじょう)  滋賀県大津市 1601年

伏見城 平山 京都府伏見区 1601年

姫路城 平山 兵庫県姫路市 1601年

福井城  福井県福井市 1601年

桑名城  三重県桑名市 1601年

加納城(かのうじょう)  岐阜県岐阜市 1602年(1601年説もあり)

二条城  京都府京都市中京区 1602年

徳川江戸城  東京都千代田区 1603年

彦根城 平山 滋賀県彦根市 1603年

長浜城  滋賀県長浜市 1606年

駿府城   静岡県葵区 1607年

篠山城 平山水 兵庫県篠山市 1609年

大垣城  岐阜県岐阜市 1609年

丹波亀山城 平山 京都府亀岡市 1610年

名古屋城  愛知県名古屋市中区 1610年

伊賀上野城 平山 三重県伊賀市 1611年

津城  三重県津市 1611年

高田城  新潟県上越市 1613年

徳川大坂城  大阪府大阪市中央区 1620年

関が原以後に新たに築城されたのは、膳所城、二条城、加納城、徳川江戸城、彦根城、篠山城、名古屋城、高田城、徳川大坂城

大規模な改修が行われたのは、姫路城、桑名城、駿府城、大垣城、伊賀上野城、津城

修築されたのは、伏見城、福井城、長浜城、丹波亀山城です

※歴史文献等によって諸説があります

次から、主だった天下普請が施された城を見ていきます

膳所城(ぜぜじょう)  滋賀県大津市本丸町 ※未実装

膳所城は、関が原の戦いの後、滋賀県の激戦の舞台となり廃城した大津城に代わり、徳川家康が重要な要所、琵琶湖を抑えるため築城されたといいます

琵琶湖は日本の古代から、重要な交通の要、経済や物流においても大事な場所であり、武士、大名が重要と捉えていました

織田信長は早くから、琵琶湖の利便性、交通の便の良さに着目しており、長浜城、大溝城、膳所城がその後築かれたといわれています

膳所城の初代城主には戸田一西、その後は、氏鉄(うじかね)、本多氏、菅沼氏、石川氏が続き、慶安4年の1651年から本多氏、徳川譜代の城として存続しました

寛文2年、1662年の大地震が起こった際は、城の大部分が大きく破損したといわれています

その後、大きな改修が進められ、縄張りも変更され、琵琶湖に面した水掘りの本丸も大きなものになります

改修前の『近江国膳所城絵図』を見ると、複雑な縄張りで、実戦において、敵の侵入に対しての防御性能を意識した琵琶湖を睨む要塞のような造りになっています

また、本丸の天守、出丸、二の丸、三の丸と、実に複数の戦いの場面を想定した複雑な造りとなっており、関が原の戦いの前哨戦で激戦になり、落城、廃城になった大津城のようにはならないといった当時の、徳川方、縄張り設計の工夫が伝わってくるとも思えます

天守は四重四階のもので、今は石碑が立つのみになっていますが、近江を制する者は天下を制す、の言葉通り、天下の覇権を揺るぎないものにするため、近江の琵琶湖をなんとしてもおさえたかった徳川方の要塞として造られたのではと、考えられています

福井城  槍 福井県福井市大手

福井城は、柴田勝家の頃の北ノ庄城を元に築城されました

北ノ庄城は、1575年頃、織田信長が越前の朝倉氏、一向一揆などの抵抗を抑え平定した織田信長が、重臣の柴田勝家に越前を治めることを命じ、足羽川流域の平野に築かれたといわれています

※この時は9層の天守だったと城プロREの中の北ノ庄城は話しています

本能寺の変による信長の死後、山崎の戦い、清洲会議を経て、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅ぶと城も落城します

慶長5年、1600年の関が原の戦い後、徳川家康の次男である結城秀康がこの地に入り、1601年にそれまでの北ノ庄城を大幅に改築が始められ、1604年に家康から松平姓を名乗ることを許された、結城秀康が天下普請の大改築を行い、四重五天守や御殿がある福井城として生まれ変わったとされています

寛文9年、1669年4月の永雲寺からの火災で城内の建物も焼失し、天守も焼けました

天守は幕府の許可が下りずその後、再建されることはなかったです

安政6年、1859年の地震で大規模な死傷者が出て、城を大きく損害を受けたとされています

戦後の昭和23年1948年の福井地震で崩れた石垣が現在でも残り、当時の地震の規模をうかがい知ることができる貴重な歴史をものがっています

今も残る本丸大手の石垣は、大きさを揃えた切込接の丁寧な積み方であり、徳川の城の特徴を見てとれます

平成20年の2008年に復元された御廊下橋は、城主が三の丸の屋敷から本丸へ渡る橋として使われていたといいます

二条城  鉄砲 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町

二条城と呼ばれた城は複数あります

ここでは現在の形を残す徳川二条城について触れることにします

徳川期二条城の元の起源は、京における家康の宿館だったと考えられており、天守はなかったものの、ある程度の防御性のあった邸宅だったと推測されています

邸宅なのに防御性能を持たせたのは、織田信長が京の本能寺で明智光秀に討たれた経緯があったため、邸宅ながら戦いに備えた造りの要素があったと考えられます

関が原の戦いの後の慶長6年1601年、徳川家康は西国の諸大名に二条城の築城を命じます

翌1602年に御殿、天守の造営が始められ、あくる1603年には、伏見城において征夷大将軍の宣旨を受けた徳川家康が入城します

大坂夏の陣の1611年に二条城の御殿で大坂城に居して未だ力を持っていた豊臣秀頼と、家康が会見し、それまでまだ幼く、豊臣家の後継者として未知数だった秀頼のオーラに、危機感を覚えた家康が、存命中に大坂方の秀頼を滅ぼすことを考えたともいわれています

この時、豊臣家恩顧の大名である加藤清正は、徳川方から豊臣秀頼を守るため秀頼の隣に控えていました

現在の遺構の二条城は、三代将軍、徳川家光が命じ築いたとされ、この頃1624年(寛永元年)に天皇であった後水尾天皇の行幸のため城を大きくした姿といわれています

この時に城は大規模に増築され、増築した面積に本丸、西南隅に家康時代の伏見城の五重天守を移築したとされています

これは、江戸幕府の将軍職徳川家の京における滞在、行事を伏見城と分けていたものを二条城に集約したためといわれています

本丸にあった天守、御殿は江戸時代の中期に焼失したとされ、本丸櫓門のみが現存しています

江戸時代後期、幕府方が政権を朝廷方に返したとされる、大政奉還は、二の丸御殿大広間で行われたとされ、徳川家最期の将軍、徳川慶喜が行いました

この国宝になされている二の丸御殿は、京における徳川家の城であった特徴、工夫がされており、京における徳川氏の格式、行事、式典などを合わせ備えた造りになっています

御殿の中の、大広間は、将軍が諸大名と謁見する場であり、それよりも身分の高い大名は、黒書院で謁見したとされています

黒書院と対する白書院は将軍の居間、寝室、休息であったとされており、遠侍といわれる二の丸御殿最大の床面積の場は、城に参上してきた諸大名の控えた待機する場でした

二の丸御殿には、3000面を超える狩野派の障壁画が残り、内部まで実に芸術性の高い空間になっています

加納城(かのうじょう)  岐阜県岐阜市加納丸之内 ※未実装

慶長6年、1601年に天下普請によって造られた加納城は、美濃国の守護代であった斎藤氏の加納城の跡に築かれました

美濃国の大きな城郭、拠点はそれまで岐阜城でしたが、堅牢な山城であったため、城の増築の利便性、交通を考えた家康が山城の岐阜城から、平城の加納城に拠点を移したと推測されます

縄張りは家康自らが行い、築城を命じました

初代城主は、中津城のイベントでタニシの話の元になった奥平信昌です

奥平信昌は、家康の娘婿であったことから徳川譜代の城として、大久保氏、戸田氏、安藤氏、永井氏が続きました

本丸の北西隅に天守台はありますが、天守は建築されなかったとされています

本丸の石垣は徳川の城とこの頃の時代の特徴である、形の比較的整った石ではなく、加工のしにくい石が使われており、岐阜城の石垣を移したのではないかと推測されています

岐阜城の天守は加納城に移築され、二の丸の北東隅に御三階櫓として在ったとされていますが、享保13年の1728年の大火事に遭った際、焼失されたといいます

徳川家と関わりが深く、本丸は徳川将軍が滞在した際の宿泊所、二の丸は城主の住まいとして分けられていたと推測されています

現在は、埋められてしまいましたが、本丸の周囲には、水掘りが張り巡らせており、荒田川、長刀堀(なぎなたぼり)の二重になった堀があったとされています

徳川江戸城  東京都千代田区千代田 ※未実装

徳川家将軍の居城である徳川江戸城は、天正18年1590年に関東に移封された徳川家康が前身の太田道灌時代の江戸城(館)のあった場所に築きました

徳川家康は、小田原北条家を制し、関東を支配下においた豊臣秀吉の命で関東八州に移封されました

250万石の大大名として関東に入った家康でしたが、その頃の江戸は、まだ開発が進んでおらず、天守を建てるどころか、江戸湾から江戸の町の整備、水路の確保、土地の整備から始めたとされます

そしてこのような町を造る整備、基盤が後に大発展を遂げる江戸の町の繁栄の基礎になっていくのです

家康は朝鮮出兵の際は、海を越えて出陣はしなかったものの、肥前名護屋城へ赴いたり江戸の町の開発、整備、江戸城の築城に労力を注ぐことはできていませんでした

しかし、関が原の戦い後、慶長8年1603年になると征夷大将軍になり、江戸に将軍の城として、70家の大名による天下普請の築城が開始されました

関東は石材が少なく、石垣用意、調達は西国の大名が命じられるなど多くの人々、大名の力、技術力を集めた大事業として造られていきました

家康時代のあったとされる天守は資料が少ないものの、白漆喰総塗篭の壮大な城であったとされ、豊臣氏の城の象徴である黒塗りの城とは、一線を画すものであり、天下の政権が豊臣氏から徳川のもになったことを世に示す効果もあったのではないかと考えられています

家康が駿府城に隠居してからも、二代将軍秀忠、家光と城の造営は続き、寛永度の江戸城(1638年頃)が、現在考えられる一つの完成形ではないかと推測されます

明暦3年の1657年に起こった明暦の大火で、天守は焼失してしまいます

その後、天守台は残すものの、天守は太平の世には不要とされ再建されることはありませんでした

江戸城の天守は再建されなかったですが、江戸の町は発展し大きく栄え、その中心にはいつも江戸城が在りました

彦根城 平山 槍 滋賀県彦根市金亀町

彦根城は慶長9年1603年に、徳川家の重臣の井伊直政の長男の直継の城として築城されました

井伊家の先代の直政が群馬県の高崎城から、関が原の戦いにおける戦功により、京にも近く、要所である近江の地に移り、治めることになります

近江彦根の地は、北国と東国の交わる境の地であり、大坂の豊臣家、西国大名を抑える重要な地域であったとされ、徳川家康は、徳川家の四天王一人である井伊直政に、この地を治めるように命じたと考えられます

また、直政がこの彦根の地に移るまで、豊臣政権の五奉行であった石田三成が治めており、豊臣政権においても重要な拠点でした

彦根城には現存している数少ない天守、日本的といわれる城の特長が随所に施され、日本の近代城郭の中でも彦根城でしか見られない工夫、意匠が多く残されています

国宝にもなっている天守は、破風の数が三重天守として最も多く、様々な破風(入母屋破風いりおもやはふ、千鳥破風、唐破風(からはふ)、比翼切妻破風きりづまはふ)が組み合わさり、東西と南北によって異なった城を見せる造りになっています

侵入してくる敵に備えた天秤櫓の周辺の縄張りは、複雑に入り組んでおり、天秤櫓を目視していてもなかなか辿り着けない迷路のような縄張りになっています

天守を背に見える玄宮園(げんきゅうえん)、楽々園(らくらくえん)は、城内の庭園として国内最大規模のものであり、城プロREで彦根城の特技の由来になっています

彦根城の築城に関しては、城プロREの彦根城も話している通り、彦根周辺の近江国の城からの資材が移築されており、天守は大津城、本丸正門の太鼓門は佐和山城、天秤櫓は長浜城大手門からの資材の移築が行われたといいます

彦根城は平山城となっていますが、標高が高い場所にあり、麓からの天守も印象的に見える天守の造りになっています

駿府城  弓 静岡県葵区駿府公園、追手町、駿府町、城内町

駿府城は、天正13年、1585年に徳川家康の命で築城されました

駿府城の建てられた場所は、今川氏の今川義元が居を構えたとされる今川館があったとされ、現在の駿府城の二の丸の付近といわれています

豊臣秀吉の天下統一によって本拠地であった三河を離れ、江戸に移封された徳川家康でしたが、次に駿府城に入った中村一氏の頃に近代城郭としての形になったとされています

征夷大将軍になり江戸に幕府を開いた家康は、慶長12年、1607年に駿府城を隠居するため城の改修を命じました

これが駿府城の天下普請です

東海道と江戸を結ぶ位置にそびえた駿府城は時の権力者、徳川家康の隠居城として六重七守の豪華な天守であったとされ、度々の失火で焼失し再建されることなく、明治の時代を迎えましたが、堂々たる天守は、三河の富士の山と並び建つ大きな城であったといいます

天守は再建されてないですが、木造で再建された巽櫓と東御門は、現在の駿府城の資料館にもなっています

篠山城 平山水 弓 兵庫県篠山市北新町

丹波篠山城は、慶長14年1609年に丹波国、今の兵庫県篠山市に築かれた城です

縄張りは藤堂高虎、普請奉行は池田輝政、城主は松平康重といわれています

丹波篠山城主、松平康重は、駿河国三枚橋城主松平康親の長男とされていますが、徳川家康の子供ではなかったかという説もあります

丹波篠山城は、関が原の戦い後、豊臣家、西国大名の抑えとして丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)に築かれ、豊臣側の大名を警戒して築かれたと推測されています

天守台は残りますが、天守は築かれたことはないといわれています

堅固かつ、実戦も想定されていた城であったとされ、国指定の史跡の馬出は、城の出入り口である虎口の外側に、小さな曲輪が築かれており、高い防御性能を重視していたとことがわかります

平成12年、2000年には復元御殿として篠山城大書院が復元建築されています

丹波亀山城 平山 刀  京都府亀岡市荒塚町

丹波亀山城は、天正5年1577年頃にこの地を治めていた明智光秀によって築城されたといいます

本能寺の変が起こった時、丹波亀山城で準備仕度をして本能寺へ向ったといわれています

光秀が山崎の戦いで敗れ、羽柴秀吉のものになると、織田信長の四男の羽柴秀勝、秀吉の甥の秀勝(名前が前者と同じ)、秀俊(小早川秀秋)と、城主は豊臣秀吉一族の城として重要視されていました

1594年からは、豊臣五奉行の前田玄以が城主を務め、豊臣政権においても重臣を配置し、京の近く、山陽道を管理できるこの土地に気を配っていたといえます

関が原の戦い後、前田玄以の子の茂勝を兵庫の篠山に配置換えし、慶長14年1609年に、岡部長盛を城主に天下普請を行いました

この時に、縄張りを務めた藤堂高虎は、居城の今治城の天守を、丹波亀山城に移築しています

明治になり、丹波亀山城は廃城しますが、在りし日の天守の姿を写した写真からは、破風を持たない層塔式の天守であったことに加え、窓の位置が低く設けられており、挟間として重視されていたと窺え、実際の戦闘も想定した造りとして観ることもできます

現在は宗教施設が内部を使用しており立ち入りが不可な場所もありますが、総合受付で見学を申し込むと、見学することも可能です

明治維新での廃城なども重なり、石垣の造りも江戸時代のもとは異なっていますが、1946年に以前の石垣を用いて最築された石垣もあり、現在亀岡市内の千代川小学校の門になっている門は、亀山城新御殿門として移築され残っています

亀岡市では、『丹波亀山城下町宝さがしゲーム』が毎年開催されています

参加料が無料で開催時期も7月~12月とあるので丹波亀山城に観光に来たら参加してみると良いかもしれません

名古屋城  槌 愛知県名古屋市中区本丸

名古屋城がある現在の愛知県名古屋市周辺は、美濃国の斎藤道三、尾張の織田信長、駿河の今川義元が覇を競った大事な地域でした

名古屋城の前身である、那古野城では織田信長が生まれた城であり、信長は2歳で城主になったとされています

信長が清洲城に本拠地を変えたときに、那古野城も廃城します

関が原の戦いの後、徳川家康が幕府を開くと、この土地に慶長14年1609年に家康の九男の義直の居城、名古屋城を築くことになります

濃尾平野を一帯を望むことのできるこの地域は徳川家康も重要と考えており、江戸城に次ぐ五重五階の大規模天守が築城されることになります

名古屋城は、徳川江戸城(家康の天下普請1601年)、家康の隠居城の駿府城の1607年改修と比較して一番あとになって造られています

そのため江戸城や駿府城の技術の良いところが取り入れられ、普請を担当した大名の技術の結集された名古屋城は高い完成度を誇ったとされています

縄張りは直線的で、曲輪も長方形なもので、複雑な縄張りというわけではなく、個々の特長がはっきりとした大規模城郭の造りになっていました

このような造りを意識したのは、大規模な名古屋城を見た豊臣方に大きな城という意識を与え、威圧する意図があったとも考えられます

名古屋城は『清洲越し』と伝えられる、尾張の清洲城から、清洲城天守、城下町、家臣、町人、寺社3社110の寺が移されたといい、今も名古屋城に現存する西北隅櫓は、清洲城の天守だったといいます

伊賀上野城 平山 刀 三重県伊賀市上野丸之内

三重県の伊賀にある伊賀上野城は最初、平楽寺、仁木館があり、その後、織田信雄の家臣の滝川雄利が砦を造り、筒井定次の頃に、城下町を持つ城郭として天正13年、1585年に築かれたとされます

この頃の伊賀上野城は、三重の天守であったといわれています

筒井定次は関が原の戦いで東軍につきますが、慶長13年の1608年に筒井騒動で改易され、城主には、藤堂高虎が入ります

筒井氏は、豊臣姓も賜った豊臣恩顧の大名であり、この伊賀上野城は豊臣家の大坂城の東国地方へを睨んだ支城であり、この筒井氏を改易させて、藤堂高虎を配置し、徳川方の堅固な城に改修したのは、豊臣方の支城を減らし弱体化を図ったのではないかともいわれています

筒井氏に代わって入った藤堂高虎は、築城技術に長け、伊賀上野城を改修します

この時、西側方面から始められたとされる工事で、深い水掘りの中から、石を積んでいき、30メートルもある高い石垣を造り上げたとされます

石垣は打込接、隅は算木積で直線な高石垣は日本でも屈指であり、徳川方の対豊臣方の前線防御施設としていかに実戦を備えた造りであるかが伝わってきます

大阪の陣で城の改修は止まり、東の半分は、筒井氏の頃のままになっていますが、石垣がほとんどなく、堀も浅い筒井時代の伊賀上野城をとどめています

天守台は残っていますが、五重天守は築城中に暴風雨に遭って壊されて、以後は江戸時代にも再建されることはなかったといいます

現在ある模擬天守は、昭和10年1935年に模擬天守とされ木造で建てられたもので、内部は藤堂高虎の兜などが展示されています

反りのない一直線で、当時の2,3倍の規模の高石垣は、徳川大坂城が造られるまで国内一の規模だったといわれています

高田城  新潟県上越市本城町(もとしろちょう) ※未実装

高田城は、徳川家康の六男である松平忠輝の城として、慶長18年、1613年に築城されたといいます

築城期が、大坂の陣の前年であり、その緊迫した状況から、築城に費やした期間は4ヶ月という早さであったといわれています

高田城の天下普請にあたって、13の大名家があてられ、前田利常、上杉景勝といった越後に近い、関係のあった大名もありました

普請の責任者には伊達政宗が就き、娘の婿の松平忠輝の高田城築城にあたったとされます

天守は建てられず、石垣も積んでいなかったとされていますが、三重の櫓が復元され、日本三大夜城にも認定されており(日本三大夜城は他に大阪城、高知城)、城址一帯は現在、高田公園として多くの人に利用されています

日本の城の中でも大きな水堀は圧巻の規模で、深く広い水掘りは現在も残っています

城プロREで実装されるなら、広い水掘りも考慮され平水属性の城として実装されても良いかもしれません

徳川大坂城  刀  大阪府大阪市中央区大坂城

大坂城は豊臣秀吉の本拠の城として、大坂に築かれました

大坂の地は、京にも近く、商業や、鉄砲の産地として賑わい発展していた堺にも近く、淀川の交通水路もあり、利便性も高い場所でした

この頃の豊臣大坂城は、現在の大坂城の外側に三の丸が築かれ、さらに総構の造りになっていたとされ、今の規模の6倍近い大きさだったとされています

大坂の陣で豊臣氏の大坂城が落ちると、江戸幕府がそれまでの大坂城を埋め立て、その上に築いたのが徳川大坂城です

豊臣大坂城は、今の地上に残されてないですが、桜門、大手門、京橋門、玉造門、山里丸、極楽橋、千貫(せんがん)櫓、は豊臣大坂城時代からの名前であり、徳川家が豊臣家に代わって大坂城の新たな後継になったと考えることもできます

千貫櫓は、豊臣大坂城が築かれる前の石山本願寺の頃、石山合戦でこの場所にあった隅櫓からの攻撃が厳しかったため、織田信長の命で、この櫓を落とした者に褒美として千貫の褒美(恩賞)を与えると言った伝承が由来といわれています

本丸桜門にある巨石は雨の日にタコが浮かび上がる蛸石があり、日本の城郭の巨石の1~6位までが大坂城のものといわれています

縄張りは天下普請、徳川の城の特徴的である四角形でなく、不平等の多角形の縄張りであり、豊臣時代の大坂城の上に、築いたため縄張りを大きく変えることができなかったと推測されます

天下普請で築かれた石垣は30メートル以上で、それまでの伊賀上野城の高石垣を凌ぐ、最高の高さの石垣であり天下普請の総仕上げともいえる日本一の石垣といえます

天守は、1665年の寛文5年に落雷で焼失され、その後戊辰戦争の頃に徳川慶喜が大坂城から退いた後、失火により全焼しました

今の大阪城天守は、大坂夏の陣図屏風に描かれたものと、同じ天下普請で大規模近代城郭として築かれた名古屋城の白壁も合わせたといわれています

以上のように天下普請によって築城された御城を見てきました

関が原の合戦以後に築城、大きく改修された城が勢揃いしており、たくさんの大名が築城に関わっていますね

そうですね、関が原の合戦以後、政権を豊臣氏から徳川が掌握し、大名同士が人員、費用、時間、労働力を出し合って城を造らされているので、大名の財力を削ぐことも狙いであり、城を造ることを目標にすることで、これ以上、戦いの機会をなくすことも家康は考えていたと推測できるのではないでしょうか

また、城を造る際、豊臣家と関係の深い大名を起用していることで、徳川家との結びつきや、大名同士の協力によって城を造った達成感で団結力、連帯感が生まれ、大坂の陣では徳川方の結束が強くなったとも解釈できます

天下普請の城は、たくさんの大名、人員をかけて築城されたり、実際の戦を想定した防御性能を重視した縄張り術、築城、改修がされながら、かなり早い期間で築城された点も大事です

天下普請によって築城された城を地図で見ると、徳川家康の江戸を守り、大坂方を包囲するように城が築かれています

関が原の合戦が終わっても依然として、大坂には豊臣家が存続しており、淀殿、秀頼の大坂方と、豊臣家恩顧の大名の多い西国を警戒していたのがわかります

大坂城「あ・・・あ・・・うう・・・」

大坂城さん

・・・

みんな・・・ひどいです・・・私を取り囲むように築城されていたなんて・・・

決してそんなことだけではありませんよ

天下普請は、豊臣氏との戦いを想定して造られた城だけではなく、交通の要所、街道、水路、町などの整備も進められた側面もあります

こうした様々な技術、多くの大名を集めて行われた天下普請の整備によって各地の交通、流通、町は大きく進歩しました

大坂の陣以降は工事が未完成だったり、天災などで失われた天守もありますが、天下普請の整備によってその後の日本が大きく発展したというところも見逃せません

天下普請は、多くの大名、莫大な財産、労働力、そして当時の人たちの技術力を結集した国をあげての大事業であり、天下を安定させるための総仕上げだったのです

・・・

大坂城さんを意識して、築城、改修、改築されたなんてもう過去の話です

今はもう平和な時代になり、取り囲むなんて。今宵はせっかくの雛祭りなのですからコンサートにしましょう

甘酒もお餅も雛あられも揃っています

天下普請の城で行ってみたい、または行って良かった城は(複数回答可能)

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美月菜奈

美月菜奈

初心者のんびり気まま 効率よりも仲良く楽しく 煽り、迷惑行為、粘着行為、つきまとい行為、めんどくさい方は、恐れ入りますが固くご遠慮させて頂いております